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東京高等裁判所 昭和34年(行ナ)11号 判決

原告

磯基道

原告

薬師寺英次郎

右両名訴訟代理人弁護士

薬師寺尊正

被告

特許庁長官

倉八正

主文

昭和三十一年抗告審判第一、九二七号事件について特許庁が昭和三十四年二月二十六日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  請求の趣旨

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求めると申し立てた。

第二  請求の原因

原告代理人は、請求の原因として、次のように述べた。

一、原告等は昭和二十八年九月五日その発明にかかる「染毛剤」について特許を出願したが(昭和二十八年特許願第一五、九八三号事件)、昭和三十一年八月六日拒絶査定を受けたので、同年九月六日抗告審判を請求したところ(昭和三十一年抗告審判第一九二二号事件)、特許庁は昭和三十四年二月二十六日原告等の抗告審判請求は成り立たない旨の審決をなし、その謄本は同年三月七日原告等に送達された。

原告等の右発明の要旨は、「パラフエニーレンヂアミン又はその塩類或は誘導体と過硼酸曹達又は過酸化水素とによる染毛剤に酸化作用の触媒としてヘミン体を添加した染毛剤」である。

審決は、「昭和二十七年三月発明の樋口武夫著「香粧品の製造化学」(以下引用例という。)に、バラフエニーレンヂアミンに過酸化水素のような酸化剤を併用して日本人向の染毛ができることが記載されている。しかしそのような染毛剤にヘミン体を添加することは記されていない。しかしヘミン体によつて染毛剤中の過酸化物の分解を促進すればフエニンヂヤミンの酸化着色を促進するのは当然である。この場合フエニレンヂアミンの酸化の程度は過酸化物の使用量並びにその作用温度、時間に関係し、ヘミン体の配合によつて特定の影響はない。前記周知事実から当事者が容易に出来る程度であつて発明を為さない。」として原告の抗告審判の請求は成り立たないものとしている。<以下省略>

理由

一、原告主張の請求原因一及び二の事実は、当事者間に争いがない。

二、その成立について当事者に争いのない甲第一号証、第六号証の一、二によれば、原告等が特許願に添付した明細書には、「発明の詳細なる説明」の項第一文において、「現今一般に最も多く使用されている染毛剤は、酸化剤(例えば過酸化水素水、過硼酸アルカリ塩又は過炭酸アルカリ塩)とベンツオール系染料中間物(例えばパラフエニーレンヂアミン及びその誘導体の無機酸塩有機酸塩又はパラフエニーレンヂアミンの誘導体)とを主剤とするもので、酸化剤による前記染料中間物の酸化過程において染毛するものである。本発明は右のような染毛主剤に微量のヘミン体を添加することによつてパラフエニーレンヂアミン又はその誘導体及びそれらの有機酸塩、無機酸塩の酸化を促進助成して染毛の効果を大にし、ひいては主剤の使用量を節約することにかかるものである。」と本発明の内容を説明した後、第二、三文において、ヘミン体の構造、その酸化作用を述べ、次で第四文において「本発明は染毛にヘミン体の、この性質を利用することに係る。すなわちヘミン体はこのような触媒作用を有するから、これを上記の如き染毛剤に添加すると、染料中間物(パラフエニーレンヂアミン等)によつてヘミンの鉄(三価)は二価に還元され(この間に染料中間物例えばパラフエニーレンヂアミン等が酸化されて発色染毛する)、還元された鉄は酸化剤によつて酸化されて三価にもどり、反応は繰返される。故にヘミン体の微量をもつてしても染料中間物と酸化剤との存する限りは、この触媒作用が行われ、すなわち染料中間物(パラフエニーレンヂアミン等)の酸化を促進助成し従来往往にして必要以上に使用されていた酸化剤及び染料中間物の無駄を無くし、完全に効果的に酸化染毛を行わしむるものである」と本件発明の染毛剤の作用効果を記載し、最後に実施例を示している。(実施例は、更に昭和三十一年一月十六日付訂正書によつて追加されている。)次いで右明細書中「特許請求の範囲」の項には、「過酸化水素水、過硼酸アルカリ塩、過炭酸アルカリ塩等を酸化剤として使用するベンツオール系染料中間物例えばパラフエニーレンヂアミン又はその誘導体及びそれらの無機酸、有機酸塩類等を用いた染毛剤において、これにヘミン体すなわちブロトヘミン、鉄クロロフイル、鉄クロロフイリンチトクローム、ヘモグロビン、過酸化酵素又はこれを含有する物質の一種或は二種以上を添加したことを特徴とする染毛剤」と記載していることが認められる。

そして前記当事者間に争いない事実と、右明細書の記載との総合すると、原告等の本件発明の要旨は「ベンツオール系中間物例えばパラフエニーレンヂアミン又はその誘導体及びそれらの無機酸有機酸塩等と酸化剤として過酸化水素水、過硼酸アルカリ、過炭酸アルカリ塩等とを用いた染毛剤において、これにヘミン体すなわちブロトヘミン、鉄クロロフイル、鉄クロロフイリン、チトクローム、ヘモグロビン、過酸化酵素又はこれを含有する物質の一種或は二種以上を添加してなることを特徴とする染毛剤」であることと認定せられる。(なお原告は、ヘミン体は蛋白質を含有せず、これと蛋白質との化合物である過酸化酵素とは別個の物質である旨主張するが、右「特許請求の範囲」においては、ヘミン体の例示として蛋白質を含有しないブロトヘミン、鉄クロロフイル、鉄クロロフイリン等のポルフイリンの鉄錯塩と、これを含有するチトクローム、ヘモグロビン、過酸化酵素とを同列に記載しているところにより、ここにいうヘミン体は、「ポルフイリンの鉄錯塩又はこれと蛋白質の結合物とを考えられるヘミン酵素」と解するを相当とする。)

三、前記当事者間に争いのない事実とその成立に争いのない乙第二号証の一、二によれば、審決が引用した「樋口武夫著香粧品の製造化学」は、昭和二十七年三月十五日発行にかかるものでその第二百六十五頁以下には「第二有機合成染毛剤二、パラフエニーレンヂアミン染毛剤」として「一八六三年A. W. HotmannがP-Hitranilinを還元して製した物質で融点一一七度、過酸化水素のような酸化剤と併用して日本人向の美麗な純黒色に染毛することができ、現在最も愛用されている染毛剤であろう。(中略) 本物質の中毒作用の主なものは、染色性皮膚炎、腎臓炎、眼のかすみ等であるが、重曹または亜硫酸ソーダの添加によつて大いに軽減される。

A(Pフエニーレンヂアミン 三グラム

グリセリン 五〇グラム

水 一〇〇グラム

B(重クロム酸カリ 一二グラム

重曹 二グラム

水 一〇〇グラム

〔用法〕 十分間隔でA、B両液を塗布し染毛後洗髪しなければならない。B液としては、オキシドール、過硼酸ソーダ液等も使用せられる。(下略)」

と記載していることが認められ、これら記載からパラフエニーレンヂアミンに、過酸化水素又は、過硼酸アルカリ等の酸化剤を添加した染毛剤が公知となつていたことが認められる。

四、一方前記乙第二号証の一、二の記載と<証拠―省略>を総合すると、パラフエニーレンヂン誘導体に過硼酸曹達等を添加した従来公知の染毛剤は、パラフエニーレンヂアミンに毒性があるため、これを多く使えば染色性皮膚炎等を惹きおこしかぶれることがよくあるが、これに少量の鉄クロロフイリンを添加するときは、同一の条件のもとにおいて、これを使用しないときに比して、人毛を明らかに濃色に染色していることが認められ、すなわち本件発明によるときは、パラフエニーレンヂアミンの使用量を節減するともに、これにより前記公知の染毛剤にみられたパラフエニーレンヂアミンの毒性によるかぶれ等の中毒作用を起す危険を除去または軽減する効果を奏するものであることが認められる。もつともこの最後の効果は、明細書中に明示されてはいないが、公知の染毛剤がパラフエニーレンヂアミンによる前述のような中毒作用を惹起することが一般に知られている以上、その使用量を節減することが、同時にこれによる中毒作用の除去又は軽減する効果を有することは、前に認定した「従来往々にして必要以上に使用されていた酸化剤及び染料中間物の無駄を無く」する旨の記載により当然示唆される効果と解せられる。

五、原告は右は、ヘミン体がパラフエニーレンヂアミンを基質としていてその酸化の促進と徹底とに作用するものであつて、審決がいうようにヘミン体が過酸化物の分解を促進することを主眼とするものでないと主張し、証人<省略>は、過酸化酵素の触媒作用は、この酵素に過酸化水素がついて複合体を作り、それが水素供与体に働らき、これを酸化させ、酵素は元の形に戻る旨証言しているが、その成立に争いのない甲第十六号証(小倉安之作成の回答書)によれば、右反応機構については他にも説があることが明記され、原告自身もまた近時過酸化酵素のメカニズムにつき過酸化酵素が作用する基質は第一基質として過酸化物、第二基質としてフエノール類ヂアミン類であるとの見解を取る人があることを自認しており、他面または成立に争いない乙第一号証の一、二(森元七著酵素調製法及び研究法)には、「過酸化酵素が過酸化物に作用して酸化能力を増大せしめ、被酸化物に過酸化水素の酸素を与えるものであり、過酸化酵素は過酸化物が存在しなければ酸化作用を得ることができない。ただ過酸化物の共存する場合においてのみ酸化作用を行うものである」ことが記載されておることが認められる。

しかしながら本件が対象とする審決の当否は従来公知のパラフエニーレンヂアミンと酸化剤として過酸化水素等とを用いた染毛剤に、ヘミン体を加えることを要旨とする本件発明の染毛剤が、従来にものに見られなかつたような酸化による人毛の着色を促進せしめるか、そしてそのことが公知のものから容易に想判され得るかの判断如何にあつて、その反応機構の解明がどうであるかは、発明の成否には直接に関係がないものといわなければならない。

六、審決は、本件発明と前記引用例とを比較して、「引例の染毛剤にはただヘミン体を添加することが記載していない点で本件発明と相違しているに過ぎない。しかしながら請求人(原告)がヘミン体の称する過酸化酵素によつて、染毛剤中の過酸化物の分解を促進すればフエニーレンヂアミンの酸化着色を促進するのは当然である。」とし、「またこの場合フエニーレンヂアミンの酸化の程度は過酸化物の使用量並びに作用温度、時間に関係し、ヘミン体の配合によつて特定の影響を受けることは認められない。従つて本件発明は、前記周知事実から当業者の容易にできるものである。」としていることは、前に認定したところである。

しかしながら四において認定したように、パラフエニーレンヂアミンに酸化剤として過硼酸曹達等を添加した従来公知の染毛剤(引用例記載のものは、これに当る。)に少量の鉄クロロフイリンを添加するときは、同一の条件のもとにおいて、これを使用しないときに比して、人毛を明らかに濃色に酸化着色せしめた事実は、「フエニーレンヂアミンの酸化の程度は、(中略)ヘミン体の配合によつて特定の影響を受けるものとは認められない。」との審決後段の理由と一致しない。

また引用例に示す従来公知の染毛剤の有したパラフエニーレンヂアミンの使用量を節減するとともに、これよりにその毒性による危険を除去又は軽減せしめる効果を有する本件発明が、引用例ヘミン体の添加が望ましい旨の記載のないのはもとより、この点について何等示唆のない本件において、「前記周知事実から当業者の容易にできるもの」となすには、審決の示した「ヘミン体によつて染毛剤中の過酸化物の分解を促進すればフエニーレンヂアミンの酸化着色を促進するのは当然である。」との理由だけでは、未だ十分理由を尽したものとは解されない。

七、以上の理由により、原告等の本件発明を公知事実から当業者の容易に想到できる程度のもので旧特許法第一条の発明を構成しないとなした審決は違法であつて取消しを免れないから、原告の本訴請求を認容し、訴訟費用の負担については行政事件訴訟法第七条、民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決した。(裁判長裁判官原増司 裁判官福島逸雄 荒木秀一)

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